行動学会 MailNews (133) March 13 2014 大会ラウンドテーブル報告 第二弾 行動学会 MailNews は日本動物行動学会の会員向けに不定期に発行されるメール マガジンです。 *************************************************************           CONTENTS ・日本動物行動学会第31回(奈良)大会ラウンドテーブル報告 第二弾 報告者: 辻 和希・工藤慎一 ************************************************************* 日本動物行動学会第31回(奈良)大会ラウンドテーブル報告 第二弾 報告者: 辻 和希・工藤慎一 ----------------------------------- (1)ランドテーブル「行動生態学はオワコンか? ―明日の行動学に向けて ―」の報告 辻 和希(琉球大学) 私はこのRTで「行動学会はガラパゴス化したか?土建屋としての行動生態学を取 り戻そう」という題の話した.「ガラパゴス化した」というのが私の結論であり, 証拠として,大型科研費の最近の採択状況データ,国際学術誌における行動生態 学論文の掲載状況,および国際学術誌における行動生態学分野に関するメタ総説 を提示した(ここでは載せない.要望があれば個人的にお見せする余地はある). しかし後味はあまり良いものではなかった.その後の質疑から真意が伝わったか 心配になったからだ.そこで以下に講演の骨子を記すとともに,付言したいこと を書く.なお,本稿は私自身の講演に関する追想で,本RTであった他2名の講演 とは直接の関連はない. スライドでも示した要旨は以下のとおりである(一部改訂). (1)どんな分野にも賞味期限がある. (2)行動生態学も期限切れで,行動学会はほぼガラパゴス化した. (3)しかし,行動生態学は単なる一過性の流行を超えた,生物学の基本理念を 具現化した分野である.それはニュートン力学や分子生物学にも匹敵する. (4)かつて若者たちにとって魅力だった行動生態学のcutting edge感を取り戻すには,行動生態学の研究対象をこれまでの個体レベルから他の 階層であるミクロ(生命科学分野が得意とする階層)とマクロ(群集、生態系) に意図的に広げる攻めの姿勢が必要だ.すなわち行動生態学から進化生物学へ. (5)実のところは(4)は魅力いっぱいの空きニッチで,Darwinismによる仮 説検証アプローチが可能な分野である.つまり行動学会以外では行動生態学はこ れからなのだ. (6)攻めの姿勢を欠けばマニアの安住の場さえ危うくなるだろう. (7)行動学会を行動生態学マニアの純文学サロンから緊張感ある異分野の出会 いの場へ戻すのは今だ.  別の言い方でさらにまとめよう.行動生態学が伸張著しい新分野とみなされて いた時代はとうに終わり,分野の維持と発展に必要な研究費,研究ポスト,次代 を担う優秀な若手研究者など基本資源の獲得が日増しに難しくなっている.行動 生態学者は分野で培った俯瞰的能力を活かし,従来の個体レベルだけでなく幅広 い階層の現象のより深い理解のため行動生態学の基本的な考え方(適応進化)が 有効であろうことを積極的に示していくべきである,ということだ.   誤解があると思われたふしは,たとえば粕谷会長からあった「(煮詰まり感 は)血縁選択および性選択の研究分野の一部に限った特殊な現象(すなわち行動 生態学全般の問題ではない)でないのか」という発言に代表される.これはRTの 他の講演者とは見解が違うかもしれないが,私は講演で行動生態学を「飽きた」 とはいったが「行き詰まった」「新たな発見が少なくなった」とはいっていない. むしろ行動生態学内部では通常科学としての切磋琢磨の中で日々新たな問題が発 見され,さらなる進歩に成功していると述べている.  だとしても,行動生態学が「旬」だった約30年前と違い,「外の世界」が別 の場所に去ってしまったのが現状なのだと訴えたのである.その大きな理由は生 命科学の大発展と温暖化等の環境問題を通した地球科学に対する社会の熱い注目 にあるだろう.すなわちそれら分野への「進歩」や「期待感」と比べたとき,行 動生態学へのそれは誰が見ても弱いと感じざるを得ない.これを行動生態学者自 身が十分認識していないことが大問題であり,放置すれば分野の認知度の低下や 衰退,ひいては分野の存続すら危うくなるだろうということであった.いうまで もないが,行動生態学の定義はここでは重要でない.「外の世界」が行動生態学 をどんな学問だとみなしているかの議論なのだから.分野の指導的立場の研究者 と志の高い若手研究者はこれを意識しながら,今後の研究テーマを戦略的に練る 必要があるだろう.誰から見ても魅力的な研究テーマに挑む事で,研究費,研究 ポスト,次代を担う優秀な若手研究者がすべて集まる正のフィードバックを期待 したい.  「行動生態学の死」は身近な場所でも起っている.生命科学やシステム生物学 (行動生態学の用語では主として至近要因の研究分野)はもとより,今では生態 学においても自然選択理論の重要性が認識される機会が,とくに保全生態学的な 研究が台頭してきてからめっきり減ってしまった(ただし,日本生態学会大会に いけば進化をキーワードにした群集や保全研究が多数発表されているが,私には まだ不満である―これはいずれ他所で議論したい).「黒船」から30年たって もDarwinismは日本の生物学に根づくどころか,それとは違う考えを持つ人の批 判の対象としての教養にさえなっていないのではと感じるのである.  ではどうするか.まずは研究テーマの選択から変えないといけない.行動生態 学のよかったことは(1)ナチュラリストにスタンダードな方法論を与えたこと (これは岸由二氏の言葉だが文献を忘れてしまった).すなわちモデル生物以外 にも任意の生物が科学的研究の対象になることを示した事.(2)その予測力を 通し生物を理解する上で自然選択理論の有効性を示した事だといわれている.こ のうち(1)については,これからは市民研究者や初心者(研究インフラに乏し い大学の卒論など)のニッチとしてはどうだろうか.行動学会大会に有象無象の 雑多な野生動物種の研究者が集まる行動学会が楽しい理由のひとつである.これ は日本の分化の成熟と平和のメルクマールだろう.しかし,責任ある立場の行動 生態学者は,その材料生物を扱うこと自体が大きな目的であるような趣味的研究 を超え,人類の知識により大きく一般的なインパクトを与える可能性が高いテー マをそれに相応しい材料で探究すべきであろう.そのためには,志ある研究者は (2)の路線で,すでに自然選択理論による理解が進んでしまった階層とは違う 階層の現象,すなわち行動という現象が存在する個体レベルを離れた階層をあえ て対象にし,そこで行動生態学的な方法論―自然選択説を軸にした進化力学よる 予測とその経験的なテスト―を導入することだろう.私はそれを土建屋(行動生 態学組)の殴り込みと表現したが,ミクロ分野・生命科学分野に対してはおそら く「殴り込む」までもなく自然の成り行きで適応論的アプローチの導入は進むと 考えている.次世代シーケンス技術が応用可能になって以来,生命科学研究分野 から共同研究を求められた経験のある行動生態学者は少なくないのではないか. 事実,今やエコゲノミクスは若手進化生態学者に人気のホットな分野である.さ らなる研究者の効率的養成にはマクロ生物学の大学教育カリキュラムの変更も必 要だろうが,若手行動学者に生命科学の体系を修得させることはそう困難ではあ るまい.これとは対照的に生命科学分野に進んだばかりの若手に行動生態学のデ ィシプリンに興味を持たせるにはどうすれば良いかは,過去もこれらかも大きな 課題である.さて,ここで行動生態学を学ぶ志の高い若手にひとつだけ注文した いことがある.「あちらの方」がインパクトファクターの高い雑誌に載りやすい からといって「魂を売らない」事だ.行動生態学者のゴールは現象形質をコード する遺伝子を特定したことでは終らない.もっと深遠な世界に対する理解である はずだ.  上記随筆と矛盾するが,私個人は研究費は必要なだけあれば十分だと思ってい る.しかし学会賞もいただいた分野の責任ある立場としては予算獲得額は大きい 方がいいと考えるだろう.またプロの研究者として,ある研究領域に対して皆が 「煮詰まった」と思うこと自体はチャンスであると考えている.分野に周知され た重要問題が沢山ある状況(誰が真っ先にその問題に取り組むかが重要な状況) とは違い,より深く切り込んで問題を発見していく能力が試されるからだ.私は それを実践しているつもりだ.だから「行動生態学はもう駄目だ」といわれれば 「大きなお世話!」と叫ぶだろう.まともな研究者ならそう考えるのはないか. 今回,あえて「行動生態学は死んだ」などという発言をしたのは,日本行動学会 は自身の育った場であり,定職に就いた責任ある立場から,学門分野が持つ今あ るこのニッチを前提に,前向きに新領域を開発していく義務があると感じている からだ.  これは穿った考えかもしれないがあえて云おう.行動学的な研究成果,たとえ ば動物の配偶行動の知見などはしばしば世間一般から好奇の目でみられるゆえ, 動物行動学者は一般社会で注目されるチャンスに恵まれている.このことが「学 問それ自体が世界から常に重要と思われている」という錯覚を動物行動学者にも たらしているのかもしれない.好奇の目で見られることと社会的評価(啓蒙され た国民の理解を通しまともに研究資源の獲得をもたらすもの)の違いを行動学者 は正しく認識すべきである.  かつてアントニオ猪木は「プロレスに興味がない人の目をプロレスに向けさせ るのがプロの(レスラーの)仕事だ」といったが,今の動物行動学者にもこれが あてはまる.動物のセックスや怠け癖に好奇の目を向ける一般の人々だけでなく, 素晴らしい研究がしたいと考えている若者や,研究費の配分を左右する人たちの 目をこちらに向けさせなければならない. --------------------------------- (2)「行動生態学のお楽しみはこれから:学問体系の成熟の先に見えてきたも の」−ラウンドテーブルの覚え書き 工藤慎一(鳴門教育大・院・学校教育) 「行動生態学とは何か?」と直球で問われるといささか困るのではあるが,ここ では「行動形質の進化に対し,自然選択を基礎とする理論・仮説によって因果的 な説明を与える学問」とでもしておこう(今や進化生態学との境は消滅してい る)。この「行動生態学」自体,あるいは「日本の行動生態学」に対する批判, その批判に対する反論,これがこのラウンドテーブルに求められたものらしい。 二つの批判に対し,ラウンドテーブルで私が述べたことを少々詳しく記しておき たい。  まず,行動生態学自体に対する批判に関して。批判の焦点が今ひとつつかめな いものの,「わくわくするような理解の革新が期待できない。答えが予め予想で きる小さな問題しか出てこない」という主旨なのだろう。行動生態学の最も大き な,つまり研究プログラム自体の憲法とも言うべき大仮説「選択による進化」は 確かに棄却されていない。しかし,ここから派生する「かなり包括的な仮説・理 論」に関して言えば,1990年代以降も新規の提出や既存の大修正が続いているの が現状である。私の反論のひとつは,「批判者はこの変化をフォローできていな い,つまり単なる勉強不足なのではないか」というものである(そうでなければ 個人の好き嫌いの範疇だろう)。「Differential allocation (Burley 1988) or Compensation (Gowaty 2008),Resolution of parent-offspring conflict (Godfray 1991, 1995; Parker et al. 2002),Sexually antagonistic coevolution (Holland & Rice 1998; Arnqvist & Rowe 2005),Fisher conditions in parental investment and sexual selection theories (Kokko & Jennions 2003, 2008; Kokko et al. 2006; Houston & McNamara 2005),Coevolutionary feedbacks between mating and parental investment (Alonzo 2010)」,これらは理論革新の代表的なものであろう。旧来の理論枠で要求され るものとは異なる検証を促すことで,実証研究に新しい流れを生み出している。 さらに,新しい仮説には共通する特色もあるように見受けられる。「Behavioral Syndrome (Sih et al. 2004),Reproductive ground plan hypothesis (Amdam et al. 2004),Oxidative stress hypothesis (Monaghan et al. 2009),Challenge hypothesis (Wingfield 1990)」などの仮説は,どれもある特定の至近プロセス・メカニズムを想定した 上で適応進化の予測を生み出すものであろう。例えば,(日本でも良く宣伝され ている仮説のひとつ)行動シンドロームは,複数の行動形質が同じ(特定のホル モン支配など)生理的メカニズムで制御されていることを(少なくとも暗黙に は)前提としている。このような仮説が「流行る」のはなぜか?我々が観察する 「形質」の実体は,「遺伝子〜表現型」一連の発現プロセスである。そして表現 型に働く選択は,この発現プロセスの(ある部分の)変異を生み出す遺伝子の頻 度を変える。すなわち,選択を通じて頻度を変える遺伝子はこの発現プロセス次 第となる(逆に,遺伝子の変化によって変わる表現型もこのプロセス次第)。こ のことから,ある形質の適応進化仮説のしっかりした検証を行うには,その形質 の具体的発現プロセスを予め仮説に組み込むことが有効だという意識が強まった 結果ではないか。行動生態学の説明枠を採用するということは,「形質進化を生 み出す基本力学=選択」に同意することであろう。ここでは,「個別の行動形質 の進化を説明すること」=「個別の制約条件を特定すること」に他ならない。生 物の進化は,すでに存在している状態に変化を加えるかたちで進んで行く。した がって,進化の初期に成立した至近プロセス・メカニズムほど保存され普遍的と なると期待できるであろう(塩基配列を遺伝情報として採用したことなどを想像 していただきたい)。つまり,「制約は至近プロセス・メカニズムに宿る」,そ う考えても不思議はない(ただし,そうとは限らないことも強調しておきたい)。 しかし近年のこの流れ,私自身は行動生態学にとって「諸刃の剣」という感覚を 持っている。そもそも行動(進化)生態学の価値あるいは魅力とは何だろう?そ れは,この複雑多様な生物世界が成立した理を可能な限り「一元的に説明・理解 する」ことだろう。常々私は,「行動生態学は生物学におけるニュートン力学た りえるか?」と夢想してる。(ミクロは量子力学に譲るとしても)マクロな経験 世界の挙動を説明するには,ニュートン力学で不足はない。運動方程式の中では, 斜面を転がる球は鉄製でも木製でも構わない。「それぞれの制約(初期)条件さ えインプットすれば,虫も魚も草木でさえ,いや別の惑星の生命と呼べるものだ って,それなりに統一的に理解できる」,行動生態学の理論・仮説もそうなれる のか?と。一方,(歴史による共通性が期待できるだけで)形質の発現・調節メ カニズムは形質毎,生物毎に個別のものである。つまり,特定の発現・調節メカ ニズムを前提にしてしまうと,「ある生物で形質の進化を説明する理論は,同じ 形質であっても別の生物には適用できない」ことになる。あるいは,類似の機能 を持つが別の発現・調節メカニズムを持つ行動形質をひとくくりに同じ名称で扱 う,つまり抽象化することが困難になるかも知れない。これでは,一般的な説 明・理解を求める姿勢と逆行してしまう。説明・理解の個別性と一般性,果たし て落としどころはどのあたりなのだろう?(これは,良い理論モデルとは何か? の議論に通じるところであろう)  さて,私なりに感じている行動生態学の問題点も指摘しておこう。それは「流 行に敏感すぎる」ところ。行動生態学の代表的な国際会議に参加していると,数 年おきに流行のテーマがコロコロ変わり戸惑う程である(そして程なく同一テー マ論文の出版ラッシュとなる)。注目される仮説・理論が提出された後,予想に 合う結果が限られた分類群で幾つか出ると,同じ仮説・理論を扱ったその後の研 究成果の評価が極端に下がってしまう。その結果,仮説・理論の検証作業が放棄 され,確証判断も反証判断も下せないまま研究が立ち消えになってしまうことが あまりに多いと感じている。「多様な系統群,多様な研究手法を用いた検証結果 が蓄積され,それらを利用したメタ分析の結果を待って確証・反証判断が下され る」,これくらいの慎重さを求めたいと思うのは私だけだろうか?これまで誰も 考えつかなかったアイデアに基づき,全く新しい理解が得られたとしたら,もち ろんそれはすばらしい。しかし,真新しいモノだけを求めて,研究者が全員「飛 んだり跳ねたり」する必要などない。自然科学である以上,「データによる地道 な検証の積み重ね」,好き嫌いに関わらずこれを避けて通ることはできないはず である。「すぐに新しい課題に飛びつく」,これは急速に発展している学問分野 にありがちなことなのかも知れない。行動生態学がまだまだ成熟していない証だ とも言えそうである。  ラウンドテーブルでは,わずか数年のインパクト・ファクターの分析によって 「行動生態学雑誌のインパクトが相対的に低下している」という批判もあった。 インパクト・ファクターによる評価に関する問題は,これまでに「山ほど」指摘 されている(例えば,出版論文数自体の効果:スケール・エフェクトは最も深 刻)。ライバル関係にある分野との相対的な位置(順位)の変化をみるのが,と りあえずバイアスを避ける方法だろう。1990年代前半から現在に至る20年程のタ イムスパンで,マクロ生物学系約40誌のインパクト・ファクターの平均を比べて みると,行動生態学を中心に据える代表的な雑誌群と一般の生態学や進化生物学 の雑誌群との相対的な位置関係はほとんど変わっていない(一方,生物多様性や 保全を中心に扱う雑誌は大幅に伸びている)。批判の反論には,とりあえずこれ で事足りるだろう。  世界に目を向ければ行動生態学は相変わらず活況を呈しており,代表的な国際 会議は新し物好きの院生・ポスドクで溢れている。では,日本の行動生態学に限 定してみた場合はどうであろうか?研究のクオリティに関しては別の機会にゆず るとして,まずは簡単に生産性を見てみた。行動生態学の有力2誌(Animal BehaviourとBehavioral Ecology)で論文毎の第1著者を国別に集計してみたところ,日本人著者の割合 は約20年間で大きくは変わっていなかった(行動生態学の先進国からは大きく遅 れを取っている)。この傾向はもっと多くの雑誌で確認する必要があるが,少な くとも「日本の行動生態学が20年間で飛躍的に伸びた」とは言えそうも無い。こ の点だけ捉えれば,「日本の行動生態学は停滞している」という批判は当たって いるのかも知れない。しかし日本の行動生態学が停滞しているとしたら,その原 因はどこにあるのだろう?ヒントは著者割合の調査結果に現れていた。それは オーストラリアの躍進である。20年前には日本とさほど変わらなかったオースト ラリア発の論文数はその後飛躍的に伸びており,今やアメリカ,イギリスに次ぐ 勢いである。この間,オーストラリアには有力な中堅研究者が集結し,核になる 拠点研究室が幾つも誕生している(著名な理論家Kokko氏が移ったことは記憶に ある方も多いであろう)。拠点研究室には世界各地から若手研究者が集まり,高 いレヴェルの研究成果を次々発信している。方や日本はどうであろう?この20年, それまで行動生態学の中核を担ってきた研究室が次々と消滅あるいは方向転換し た結果,その数は激減し今や機能不全の状態であろう。各地の(ポスドクはおろ か学生・院生の受け入れさえままならない)「アウェイ」に散らばる個人の努力 で,細々と繋いでいる印象である(学問無視の大学組織運営,研究費獲得自体の 目的化,不適切な教員人事,見かけの業績量の追及,傭兵型ポスドクの蔓延など 衰退の原因は様々なのだろうが)。現実を直視すれば「本当のオワコン」も見え てくるし,対処すべきことも自ずと明らかになるはずである。  かつて,日本の生物学に行動(進化)生態学と言う「黒船」が確かにやってき た。この黒船は,生物学の異なるディシプリンを橋渡しする力を持っている。し かしその後,我々は本当の意味で「開国」したのだろうか?(ラウンドテーブル 当日は分野間の巨額研究費の採択の差なども話題にされていたが)明治の昔, 「サイエンスの果実をもぎ取るだけ」と揶揄された我々だが,今,本当にサイエ ンスを理解していると胸を張れるのか?「万難を排して,行動(進化)生態学の 研究拠点の形成と充実を真剣に考えるべき時に来ている」,私個人はそう考えて いる。志ある会員諸氏は,いかがお考えだろうか? ****** end of Japan Ethological Society MailNews (133) **********